臓器提供の話に関して、私もオプトアウトの方式を取られたら選択をし きれずに、選択しない事を選択し、チェックをしないかもしれない。日 本はこれが良くないと考え、どちらにせよチェックをするような方式に したと仰っていたが、世界的に見ると全てがそのような方式では無いの で、日本式を取り入れるべきだと考える。なぜなら、自分の体に関係の あることなので、選択しないという選択肢を取らせることは適切ではな いと考えるからだ。全くその通りですね。その場合、どうやったら適切な判断ができるのか。まず、臓器移植についての知識が無ければ、判断ができません。みなさんは、どれだけ、臓器移植について知っているでしょうか?
国別の臓器提供への意思が高い低いの違いは選択するにあたってオプト イン、オプトチェックであるかという違いがあるとありましたが、臓器 提供という重要なことと思われることがこのような形で提供するかしな いかを決定してしまうのは如何なのかと思う(中略)チェックを入れなけ れば勝手に適用されるというような形や不要ならチェックを外してとい うようなシステムが主にネットショッピングをする時何度か目にしたこ とがあるなと思いました。先日使ったアプリも、「アプリを評価してください」という表示とともに、すべてチェックされた★★★★★が表示されていました。
自分が下した決断に最後まで責任を負わなければならず、「自分はこう いう選択をしました」とはっきりと人に言えなければならないような重 大な選択が必要になった時、人は自分に自信がなくなったり、怖くなっ てしまい、その結果、選択を後回しにしてしまうというようなことが起 こるのかなと考えました。さらに、それだけではなく、そういった重大 な選択を迫られたとき、もしも同じ選択を迫られている人が自分以外に もたくさんいるということがわかったら、自分の下す決断への自信のな さや恐怖心から「周りと同じ意見を持っていればとりあえず大丈夫だろ う」と考えてしまい、同調するようになってしまうのではないかと思い ました。このような考え方は非常に危険で、社会の中で争い事などが起 こった際に、「とりあえず人が多い方に加担しよう」という人を増やし てしまう可能性があるように思えます。まさにそういうことが現実に起こっています。政権与党の大臣が、不祥事でどんどん辞めていくのは、そうした議員を国民が選んでいるからではないでしょうか。では、そんな人をなぜ選ぶのか…。同じ構図です。
これは昨今の若者の選挙にいかない人の割合の増加にも関連があると感 じた。これは一種の現実逃避であり私自身、負担の重い作業を後回しに したりなど思い返せば身に覚えのある話である。選択をしない長期的な リスクについて、想像力を働かせて生活することが大切だと感じた。きちんと選択しないことは、ナチス・ドイツへ一歩近づくことです。選挙に行かないのは、それを放置することです。
「選択をする練習」と聞いて、「何んだそれは?」が心の第一声である。 でも、考えてみると不思議なことではないのである。選択というアクショ ンは我々人間の人格形成、環境形成のきっかけとなる本当に大切なこと である。(中略)私は教職課程を履修している。3年間かけて学んでき て日本の教育に足りない学習を次の2点に絞っていた。一つはお金の勉 強である。そしてもう一つは性教育である。しかし、今回の授業を受け たことによって「選択の練習、勉強」というものも、日本の足りない教 育の一つにはいるのではないかと思わされた。良い観点です。お金のことも、性のことも、自分の選択と深く関わることです。セットで教育できるといいように思います。
私はいつも二つの選択は失敗しているのでpros&cous リストのやつは 僕もこれから利用していき応用していきたいと思いました。Pros&Consですね。ぜひ、実行してください!
選択が多すぎることで思考が止まる、纏まらない事を身をもって経験し ている人も多いと考える。選択の絞り方も重要だと考えた。絞り方も、練習が必要だと思います!
友達の友達の友達というふうに考えていくと、とてつもない人数の友達 が広がっていることがわかったし、今まで考えたことがなかったのでと ても興味深いと思った。特技の話と合わせて覚えておくと、何かと応用ができる話かと思います。
紙を折り続けると、月に届くようになるというのを最近話題のsilentと いうドラマの中でも言っていました。この話も知っている人が多いようですね。(そのドラマを私は知りませんでしたが。)
ドラえもんの「ばいばいん」は子供の頃にリアルタイムで見た記憶があ ります。
ねずみ算で私が最初に思いついたのがドラえもんのバイバインだったの で授業で取り扱った時にびっくりしました。
バイバインは大好きな話だ。子どもながらにねずみ算の恐ろしさを感じ て印象に残っている。
ドラえもんのバイバインの話を昔テレビで見たことがあります。当時そ んな道具があったら好きなものをずっと食べられる、とのび太と同じ考 えをしながら見ていました。最終的に増えすぎてしまって宇宙にまとめ て飛ばしますが、2人が見落としていた栗饅頭が1つだけあり、それが2 つに増えるというところで終わります。そのシーンを見て、すごく怖く なった記憶があり、この話はよく覚えています。
正フィードバックのことは悪循環と良循環の似ているところを気づくこ とができた。それがなぜかというと、自分の周りがどうであれ、それは 影響を与える広まるということです。(中略)朱に交われば赤くなるよう にですね正しい理解です!
生徒の多くが真面目に受講している講義は楽しく受けることが出来るが、 ざわざわしている講義ではどうしても集中力等が落ち、楽しく受講する ことが困難になることがほとんどであるためだ。よくある話ですね。
授業がつまんないと思うことがあるけどそれは誰のせいでもなく自分の 取り組む姿勢に関わっているんだなと思い。自分の授業態度を見直して みようと思いました。学生の態度自身が授業を変える要因となりえます。
春学期のリベラルアーツセミナーで、担当の先生が最初の授業にていい 授業にしたいので授業中に沢山発言をして積極的に参加してくださいね とおっしゃっていた。この先生は正のフィードバック、好循環を目指し ていたのだとわかった。あらかじめ、学生にそういうマインドを持たせるのも授業の技術ですね!
私は今日の授業を聞いて、フィードバックを政治の面でも活用していけ たらと思いました。今は政治家に問題が多いせいで、国民の政治家に対 する印象が悪く、それにより政治活動をしづらくなっていると思います。という状況を生み出す国会議員を選んでいるのは、他でもない、私たち国民です。国会議員を見れば、その国民がわかる、と言います。恥ずかしい国会議員を選ばないようにしなければなりません。
監獄実験についての時もそうでしたがドイツの独占政権やユダヤ人の迫 害などそういったことさえも周りの意見にながされていき次第に受け入 れていくようになってしまうということはとても恐ろしいことだと思い ました。そして何より怖いのがそれを行っていることが悪いことではな いと思ってしまう。悪い子だと気づかないという部分だと感じました。私たちにはそのような残念な性質があるということを、まずは、肝に銘じなければなりませんね。
戦争の時代のヒトラーの独裁者という役割は、その役割により、人間と は思えない行動をさせていると感じました。スタンフォード大学での実 験で人間とは思えない行動が見られたのに、国レベルでそれが行われて いることを考えるととても恐ろしいと感じましたし、独裁者であるとし てもなんでもして良いという訳ではないと思いました。人間の恐ろしさ が垣間見えました。ヒトラーが独裁者として演じていた、というのは良い観点かもしれません。ただ、明確な意思を持って独裁制を目指し、どうしたら群衆を操れるかを研究したことが知られています。ヒトラーのような人間も、そして、まんまと操られてしまう群衆も、どちらも恐ろしいです。
女性、障害者、LGBTQ、ホームレスなどの差別は今でもあることですが、 自分が該当しなくともそういう差別があれば、自分も何らかの理由で差 別を受けるかもしれないと思うので普通は差別はいけないとなると思い ます。そういう差別する人たちが権力を持つとナチスのようになるのだ と思います。ナチス・ドイツでは、少数者の切り捨てが巧妙に計画されて実行されたような印象を受けます。障害者、共産主義者、ユダヤ人と、次第に切り捨てる人を増やしていきました。
今回は最後の詩がとても心に残りました。 自分に害が及ばない状態でも、黙することを選んでいれば自分に害が及 んだ時に誰も声をあげてくれない。これは今の世の中でも十分に頭に入 れておくべきなんだろうなと思います。(中略)私は私に関係なさそう なことでも、一度自分事として向き合ってみようと思いました。「人のこと。自分は関係ないから安心。」と思っていたら、いつの間にか自分が被害者になることをニーメラーの言葉が教えてくれています。講義のページに掲載した「茶色の朝」は、そんな本です。
授業のフィードバックにて、「私は選択をしてきた」「偶然ではない」 というコメントはいくつかあったが、選択肢があるという幸せに気づい ている人は何人いるのだろうとか、と考えた。紛争地帯や極めて貧しい 地域に生まれた子どもたちは、選択肢というものが無く、「逃げる」 「学校など行けず働く」、最悪の場合「死ぬ」という選択を強制的に迫 られる場面がある。しかし、我々の国の多くの国民は、そういったこと がなく、選択ができる幸せがある。その事に国民は気付くべきなのでは ないかと考えた。まず、私が紹介した「私は選択をしてきた」「偶然ではない」と書いてくれた学生のみなさんは、間違いなく素晴らしいと考えます。それとは別の問題として、私たちは、見てみぬふりをしていることが多くあることに気づくべきです。例えば、次のようなことです
悪循環が結果と原因の繰り返しで起こるなら、早めに原因を変えれば問 題も深くならないかもしれませんね。(問題は一筋縄では解决しないも のも多いですが…)フィードバックがある場合にどうコントロールするか、という問題は、現代的な問題です。連鎖を止めるには、どこかを断ち切る必要がありますね。
同調性があると知るだけではなく、どのように対策していくかは入念に 考える必要がありそうだ。その通りですね。段階は二つあります。まず、私たちは同調しやすいことを認識すること。次は、その対策です。どう対策するか?
ナチスの失敗を学んでもなお私たちは難しい選択肢について考えること を放棄してしまうということに恐怖を感じました。選択を放棄し、同調してしまうことは、本当に恐ろしいことです。ときどき、政治家は意図的に国民にそうさせます。ただ、私たちは、本当にナチス・ドイツの失敗をきちんと学んでいるのでしょうか。悲惨で残酷な人類の歴史に、私たちはどれだけ目を向けているでしょうか。知らないで済ませておきたい、と思っていないでしょうか。
詐欺の話を聞いて思い出したのが学校である試供品が企業から配布され た時のことである。企業から生徒が商品をもった写真を頂きたいと頼ま れており、選ばれたのが私のクラスだった。しかし、クラスメイトの一 人が「まだ使っていないのにさも好評であるかのような写真を渡してい いのか」と疑問を呈したことで、クラス全体が撮らないという意見にな り写真はお断りすることになった。巧妙に写真を得ようとした企業と、 目的を見抜いた生徒の知恵の戦いだと思った。お見せしなかった同調についてのアリエリーのビデオでは、同調が解かれるためには、ほんの一人の反対意見があればいい、と指摘しています。
もし当時の人々が少しでもヒトラーとナチズムに対して「懐疑精神」を 発揮できていれば、後の大惨事は起こらなかったかもしれません。現代 の私たちはそのような間違いを繰り返さないためにも「リベラルアーツ」 を学ばなければならないなと思いました。その通りです。同調に対する懐疑、問題を指摘できる能力、そのための勉強が必要ですね。
自分も難しい選択をすることを避けてしまう時があるが、ナチスの例を 見て、考えることを放棄する危険性を改めて学んだ。政治の話は分かり にくい印象があるが、わからないままにすると選択すらできない。選挙 についても政党や議員について十分理解した上で判断したい。ぜひ、一緒に勉強していきましょう!