リベラルアーツの意味が説明されたときにも感じたが、今回の話を聞いて言 葉の意味やその背景を知ることで新たな気づきや視野を得ることができると 感じた。例えば企業の採用担当者の立場になったとしましょう。桜美林大学リベラルアーツ学群から来た学生に「リベラルアーツって何ですか?」と問われて答えられなかったら、即アウトですね。いろいろなリベラルアーツ学群の先生に「リベラルアーツって何ですか?」と聞いてみましょう。
今日の授業を受けて「社会科と社会学は別物である」という話が身に染みて わかる体験ができたと思う。社会学についてそうであったように、おそらく、「倫理学」とか「アメリカ研究」とか「アジア研究」と言われても、内容についげピンとこないのではないでしょうか。
高校まではいわゆる一般教養がメインとなるが、大学だと専門性も、ジャン ルの広さも飛躍的に大きくなると感じている。ただ、大学で何の学問に重き を置くのかは、高校までの経験に基づく場合が多いと考えるので、学ぶこと で選択肢の幅を広げるこの授業のように、浅くていいので大方の学問にしっ かりと触れる機会があったら変わるものもあるのではないかと考えた。今の大学・学群が提供する情報だけで、学生のみなさんがメジャーとなるプログラムを選べるのか、というと大変厳しいように思います。まずいと思った学生の皆さんは、積極的にプログラムの情報を集めてみましょう!
桜美林大学がプロテスタントということを知らなかったので、知れてよかっ たです。この辺も「就活で答えられないと即、ダメ」シリーズの設問なので、これを機会に情報を集めておきましょう!
桜美林は中国の貧しい女児を助ける目的で作られたルーツを持つのに学費が 高すぎると思いました。どうしたら学費を減らせるのでしょうか。学生数を 増やしたり教職員数や教職員の給料を減らすと授業の質が下がったり、学校 の設備が不十分になるし、国や都、町田市などから援助を受けすぎると私立 大学として独立できないし、個人に寄付を募ると何かしらの癒着とか起きる かもしれないので、今の学費でやむを得ないのだと思いました。非常に良い指摘です。そして、現状をよく理解している判断です。私も、俗物ですので、私財をなげうって、などという行動がとれません。国としてどうしていくか、は、有権者である私たちが考えていかなければならないもんだいではないでしょうか。
私は過去にプロテスタントの幼稚園、カトリックの中学高校で学んでおり、 現在プロテスタントの大学で学んでいる。歌ひとつとってもカトリックは聖 歌、プロテスタントは讃美歌と呼ぶ。クリスマスによく聞く「きよしこの夜」 はプロテスタントの讃美歌で、カトリックでは「しずけき」と呼ばれる。メ ロディーは一緒だが歌詞に差が見られる。また、カトリックの学校にはマリ ア像が多いのに対し、プロテスタントの学校にはイエスの像が多い、カトリッ クはルールを守ることに対し厳しいのに対し、プロテスタントルールを守る ことに対し緩いなど生活様式にも大きな差が存在する。同じキリスト教を信 仰していても、収入に差が出るのはカトリックとプロテスタントで生活様式 が違うからだ、というマックス・ヴェーバーの結論にとても納得できた。私も中学・高校がカトリック系だったので、プロテスタントの職場に着任して、随分違うな、と思いました。これから留学しようと思っている皆さん、国際的に活躍しようとする学生の皆さんは、特に意識すべきことかと思います。
何を科学とし、科学として扱うかはあまり考えたことがなかった。その学問 が理系的だと感じたら理系だし、文系っぽいと感じたら文系科目と捉えてい た。特定の学問を、自然科学と同じように扱えるか考えるとき、「反証でき るか否か」がポイントと聞いて、確かにその通りかもしれないと思った。た だ、だからこそ科学のABCの強さが分かった。それが自然科学なのか社会科学 なのかは関係なく、科学のABCは様々な学問、状況で活用することができる。 はっきりとした答えは出ないかもしれないが、そこに社会科学の面白さがあ るのかと思った。合理的に考えるだけではなく、人間の不合理性を考慮した 上で物事を考えていくのが、社会科学の魅力だと感じた。例えば経済学について、様々な「理論」がありますが、決定打はないと言われています。(あったら、日本経済も、各国の経済も、もっとマシになっているはずです。)なぜそうなのか。もしかしたら、科学のABCの考え方が浸透していないのかもしれませんが、主な理由は、人間の不合理性に対する理解が足りないからです。
今日の講義で社会学と科学のABCは全く別物ではないことがわかった。今現在、 男女差別や少子高齢化などが問題として挙げられている。これらの問題を解 決につなげるために、科学のABCを用いてみても良いのではないかと思った。おそらく、「文系」の皆さんも、これからの学問を学ぶ中で、科学のABCの考え方にたくさん接するでしょう。そのときに、しっかり意識できると理解が深まるはずです!
アリエリーさんが大学で学んだ実験的手法を用いて自分の入院体験の際に抱 いた疑問と不満を解決しにいったことが、同じ大学生としてすごいと思った のだ。痛みと不満から自分の考えや、理屈が正しいのか立証しにいき、そし てそこからさらに看護師たちが思い込み、や生まれながらの科学のABCで 間違っていることに気付かないという結論にいたったことだ。実験科学的な発想がアリエリーの中にあって、それを実行したことは、たしかに、素晴らしいことです!
今日の授業で、「反証可能でなければ科学とは言えない」という言葉を知り、 私が大学で中心的に学んでいる心理学について考えました。心理学では、実 際には心を見ることができないので、実験を行うなどして、その実験に参加 した人の行動を観察・記録して、そこからさまざまなことを読み取ろうとす ることがありますが、これは反証可能とは言えないのではないかなと思いま した。もちろん、より客観的で正確なデータが取れるように、また同じよう な内容の実験を再び行えるように、かなり細かく実験の内容や対象者、場所 などについて決められていますが、それでも「その実験に参加したその時の 参加者と全く同じ状況・思考・状態の人」を用意することは不可能なので、 そうなってしまうと反証は不可能ということになってしまい、心理学は科学 ではなくなってしまうのだなと考えました。全くその通りですね。まず、「心理学」はそのネーミングに反して、「心理そのもの」ではなく、「心理に基づいた人間の行動・反応」についての学問(と村上陽一郎氏が述べていたように思う)が出発です。それは科学的に扱えますが、多くの場合、反証不可能性を指摘することができます。書いてくれたとおり、その対策として、実験を繰り返し、統計学を使う、という作戦をとるようです。
科学は分類をするのが難しいことを知った。また、「反証可能でなければ科 学と言えない」とカールボバーが言ったが、それに当てはめると今までの歴 史の中での出来事の多くが反証不可能だと思った。全くそのとおりです。それは地学の地球史を考える場合も同様です。それでも、人間の歴史を研究するのが重要なのは、人間がどのような状況でどのようなことをしてきたのか、を詳らか(つまびらか)にすることが、私たちの将来を考える上で、とても大切だからなのではないでしょうか。昨年、私の授業を受講ししたある学生は、「自分は歴史学をメジャーにすることに決めた!」と書いてくれました。
台風の話しで中学の理科の実験で聞いた話を思い出しました。海外で台風を 冷やしたらどうなるのかを実験した話です。大量のドライアイスを台風の進 路に巻き、予想より遥かに大きくなってしまい大災害になったと言う話です。割と有名な話ですね。しかし、この実験自身も検証不可能で、ドライアイスを使わなかったときに台風がどうなるかを確かめることができないからです。ただ、人間が手を加えることについての倫理的な課題を浮き彫りにしてくれました。
社会学が科学か否か、社会学がどのような学問かも知らなかったが、気象学 の例えはわかりやすかった。気象学と社会学は似ていて、池内先生が気象学 を「疑似科学である」と言ったのは初めは非常に驚いた。統計を用いて科学 的根拠に基づいたものだと思っていたためである。だが、因果関係の複雑性 と再現不可能のため検証ができない点で科学のABCとは異なるものであるとい う主張は納得できた。しかし、ヴェーバーは社会学を科学といえる理由とし て「物理法則には根拠がないが自由意志にはある」ためだとしたがこの部分 の意味がよくわからなかった。第一、第二について説明していなくて申し訳ないですが、池内の指摘は「第三種の疑似科学」ではないか、ということです。単なる、いわゆる「疑似科学」ではないので気をつけてください。
最後に出てきたカール・ポパーの「反証可能でなければ科学といえない」と 言う言葉ではっとしました。先生が講義内でずっと言っている科学のABCでは、 仮説検証を繰り返すことに焦点が当たっていたからです。しかし反証できな くても、同じような状況を作ることはできるので、反証できなくても科学と 言えると思います。もちろん、科学のABCと反証可能性の話は別に考えるべきです。反証可能でなくても、科学のABCで仮説を検証することができるでしょう。しかし、より決定的な検証をしようと思ったときには困難になることがある。そのときにどうするか、というのは、重要な課題です。
カール・ポパーは「反証可能でなければ科学ではない」という。科学と疑似 科学を見分ける理由として世の中に疑似科学で利益を得ようとしている人が いるからだと思う。私たちは科学と疑似科学を見分け、適切な判断をするこ とが大切だと思う。疑似科学については、別途しっかり考える必要がありますね。ときどき、科学のふりをして、人々を騙すことがあります。私たちがだまされないようにするためにはどうしたらいいか。
前回もそうでしたが、不合理的な考えって厄介ですよね。頭が良い人間って、 その分変な考えを出しやすいのでしょうか?不合理な考え方は、頭のいい人だけ、ではなく、私たちの身の回りにあることだと考えなければなりません。
どんなに科学で説得させようとも相手に理解しようとする気持ちがなければ それを受けいれようとはしない。人間の不合理性についてよく考えたいです。その不合理性についての理解ができていないと、私たちには正しい判断ができません!それを知るところから始めなければならないでしょう。
看護師の方はその実験の結果から自分自身、行動を変えると考えていました が、人間の不条理の力は計り知れないもので、結果的に正しさが証明されて も看護師の方の行動は変わらずそのままになってしまったことに驚きました。残念ながら、人間が不合理な判断をするのは、看護師だけではないことは、センメルヴェイスの件でも、他の事例でも明らかです。
ダン・アリエリーの実験結果を看護師たちに伝えても本人たちは対処法を改 善しようとしなかった話を聞き、人間は理屈だけでは動かないのだというこ とを改めて考えさせられました。私自身、理解はしているけれど納得はでき ない(その逆もしかり)と感じたシチュエーションを数多く経験しているため、 看護師の気持ちも理解できます。しかし、このようなシチュエーションの場 合はどのように状況を改善すべきなのかは未だに答えが出ていません。私たちがどのように行動すべきか、その判断の手がかりは必要ですね。
考えることに疲れている時など少々過激な意見でもズバッと言い切っている ものをみると共感してしまいそうになるというような経験があるので今後も 気をつけたいです。人間の傾向として、そういうところがありますね。テレビのコメンテーターを見ているとよくわかります。
学生の学習行動は生まれながら自然におこなう科学のABCによって習得するも のであると感じた。そしてそれを基に、人は進路選択をするのではないかと 感じた。たとえば、私の場合、「○○のようにすると、この科目は知識が身 に付きやすいのではないか」と、様々な方法を試す。その上で自分に合った ものを見つける。その行動の繰り返しにより、蓄積された知識と経験から、 仮説と予測を立てて進路を選ぶ。人の人生は仮説と予測、そこから経験の繰 り返しであるということだ。科学のABCが人が生きていくということにお いて常に隣り合わせで走らせていることであるということに、気づいた。
もし、以前と全然違う選択をすれば、全く違う人生になるのではないでしょ うか?実は、私はこの質問について、よく考えたことがあります。例えば、 もし、日本に留学に来なかったら、今の私は何をしているのか?今より楽し いのか?やりたいことやっていますかとか。そんなこといくら考えても、結 果は出てこないです。だから、私は自分が選択したことは、後悔がありませ ん。後悔より今の行動は一番大切なことではないだろうかと考えました。
本日の授業は、人は不合理的な生き物である。というところで終わっていた と思います。私はそれにとても賛成的で、普段から人は不合理であるなと感 じることが多いです。例えば、私は20kmの道のりを大学一年生の頃は1時間 強かけて自転車で通っていました。(中略)私の場合には、自転車に乗ってい る時間だけが唯一孤独でいられる時間でありそこで自分と向き合えたり、目 的地に着くまでが長いゆえに到着した時の達成感がストレス発散になったり で私なりの理由がそこにありました。不合理な行動をする、という前提をもとに、私たちが人生の中でどのような選択をすべきか。次の授業のテーマです。